研究授業は難しくてあたりまえ
「研究授業なんてマンネリ」という人もいます。本当にそうでしょうか……。
子どもにとっては、普段の授業も研究授業も違いはありません。
結局のところ、普通の授業と研究授業の違いは、研究という言葉のつく・つかないにあるのではないかと思います。
結局のところ、普通の授業と研究授業の違いは、研究という言葉のつく・つかないにあるのではないかと思います。
「どういう子どもに」「どういうことをすれば」「どうなる」…これを50分の構成の中で展開していくのは、普通の授業も研究授業も違いはありません。
毎日の授業では「まあ、こうやればぼぼ間違いなく力がつく(だろう…)」という、ある程度の確信をもって教室に向かう訳です。
これはこれで大切なことですが、これでは授業が、十年一日の変化も進歩もないものになってしまいます。
そこで私たちは「こういう子どもに、こういうことをすれば、こうなるんじゃないかな…」という仮説をもって授業をしてみて、その仮説の正否を問うことで、この仮説が正しくてもそうでなくても、この授業から学んだことを自分の、そしてみんなの財産としていく。
これが研究授業の意味だと思います。
だからといって、むやみやたらに仮説をたてて授業をやりまくるのはいけません。
慎重に仮説をたて、十分に検討した指導法を、敬虔な気持ちで実践させていただく……これが子どもをモルモットにしない最低のモラルだと思います。
そして、研究である以上、以下の条件を備えているべきだと思います。
客観性・妥当性
子どもの実態や仮説を導く論理に飛躍や思いこみがなく、論理的に正しいものでなくてはいけません。
子どもの実態や仮説を導く論理に飛躍や思いこみがなく、論理的に正しいものでなくてはいけません。
独創性・新規性
内容が、他の文献等に既に出ているものや似たものがなく、オリジナリティを主張できるものでなくてはいけません。
内容が、他の文献等に既に出ているものや似たものがなく、オリジナリティを主張できるものでなくてはいけません。
一般性・普遍性
内容が「こういう特殊な子どもにしか使えない」等とか応用範囲が狭いものだと、高く評価されません。
更に、「研究」というものは公開されることを前提として行うものですので、その論の展開が論理的で説得力があることが求められ、インパクトファクターが高いもの(評価の高い雑誌等に取り上げられたり、他の研究にどのくらい引用されるか)ほど良い研究と評価されます。
これはとても難しいことです。
ですから、2年とか3年計画で継続的に研究を行う学校も多いようです。
「この仮説って、どこかで見たことがある」とか「あらかじめ結果なんかわかっている自己満足の研究じゃん」と思われる授業もいくつかあるかもしれません。
また最近は、このように「研究じゃない」と言われることを避けるために、仮説を立てることをせずに「普通の」指導案を参会者に配り、実証の観点の代わりに「見ていただきたい点」を挙げる学校も増えてきたようです。
しかし、自分たちの授業に主張を込めたいという気持ちに変わりはないはずです。
そしてその気持ちは、指導案の行間から読み取ることができると思います。
もしあなたが研究授業に参加するのならば、しっかり指導案を読み込んで、授業者やその研究グループの考え方や主張を読み取り、それがどうだったかを一人の生徒の姿から見とり、恥ずかしくない参加をしましょう。
一番恥ずかしいのは、何も発言せず、ただ見てくるだけというのだと思いますよ。