十種神宝 中学国語の基礎・基本

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道徳教育で先生ができることって何だろう……ぱねぇ仙人 太上老君

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©安能務藤崎竜集英社・「覇穹 封神演義」制作委員会
 太上老君は『西遊記』や『封神演義』で、神様よりずっとエライ仙人という立ち位置で登場する人物です。「道徳天尊」と呼ばれることもあります。
 みなさんには中国の春秋戦国時代諸子百家老荘思想で出てきた老子と言えばわかるでしょうか。

 私が「道徳」という言葉を聞いてまず連想するのが『老子』のこの一節です。

  大道廃、有仁義。(大道廃れて、仁義有り。)
       智慧出、有大偽。智慧出でて、大偽有り。)
       六親不和、有孝慈。(六親和せずして、孝慈有り。)
       国家昏乱、有忠臣。(国家昏乱して、忠臣有り。)

      <現代語訳>
      (無為自然の)大いなる道が廃れたので、仁義の概念が生まれた。
      知恵を持った者が現れたので、人的な秩序や制度が生まれた。 
      親兄弟や夫婦の仲が悪くなると、孝行者の存在が目立つようになる。
      国家が乱れてくると、忠臣の存在が目立つようになる。
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 人の道が失われつつあるから「道徳」がことさら言われ始めたのでしょう。
 この「道徳」を定着させるために頭の良い人たちが学習指導要領等をつくったのだと思います。

 この文言が載っている『老子』は上下二編それぞれ以下の書き出しになっています。

  道可道、非常道。名可名、非常名。
  (道の道とすべきは、常の道にあらず。名の名とすべきは、常の名にあらず。)
      上徳不徳、是以有徳。下徳不失徳、是以無徳。
  (上徳は徳を徳とせず、ここをもって徳あり。下徳は徳を失わず、ここをもって徳なし。)

      <現代語訳(意訳)>
 人が道と名付けた道は、真の道ではない。だから永遠不変の道理ではない。名にしても言葉にしても、人間がいて初めて存在するものだ。だから人間から見た一面的なものであり、物事の本質ではない。
 徳の高い人は徳を自慢しない。だから徳がある。低い徳の人は特にこだわる。だから徳がない。

 この上編の「道」、下編の「徳」の二文字をとって『老子』は『道徳教』とも呼ばれています。
 だから「道徳」というとすぐに『老子道徳教』を思い出すのです。(老荘思想儒教的な「道徳」とは相容れないものなんだけどね。)

 タテマエをしたり顔で言う人はうさんくさい人と思われます。まさに「ここをもって徳なし」です。
 ひるがえって私たちが道徳の授業をするとき、「○○しなくてはいけない」「○○すべきだ」と指導書にあるような結論を安易に生徒に言ってはいないでしょうか。
 それを語る時のあなたの顔を、生徒はどのようにみているでしょう。「下徳は徳を失わず」(徳の低い人物ほど徳目にこだわる)になってはいないと、……そう信じています。

 よく「教師は後ろ姿で教える」と言われます。これが「上徳は徳とせず」だと思います。
 しかしわたしたちは決して上徳などではありません。

 確かに学問の面では、わたしたちは生徒に比べ、圧倒的に経験を積み知識をもっています。ですから生徒を指導し感化できるし、生徒も尊敬し模倣しようとしてくれるのではないでしょうか。
 
 しかし人格の完成(道徳的価値の追求)という人生の目的に対しては、「かくありたい」と教師も生徒も共に人間として羨望する存在に過ぎません。

 ならば志や愛や妬みやさげすみなど、様々な矛盾する人間的感情を生徒と共感することしかできない……「師弟同行」というわけですね。


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